シャワーヘッドの為

シャワーヘッドの為、ギリシア、テキストから訳した現代作家のものを集めたもの一冊、ハンデルのピアノアルバム、ヴェートウベンの歌曲を集めたもの等。クライスラーの弾いたラルゴーをきく「レコードで」。ハンデル or ヘンデル? が好きになった。田辺氏の本を見ると、オラトリオで、ハンデルは第一位に属す音楽家とある。シャワーヘッドの買ったピアノ曲は小品で、謂わば彼の随筆か。A、レーアブックスの処で、踏台にあがり楽しそうに漁っている。片隅に腰をかけ、古びた牛皮の古書や、十七世紀時分の大型な、真心の籠った本の姿を見ていると、

シャワーヘッド達の

今日もその心持のつづきがあった。何故雨がいやかと言えば下駄や着物の裾の穢れることだけだ。惜しいようなものは身につけないがよい。本を見よう。そこで出かけたはよいが、電車を間違え、京橋で、ぐるっと左へ廻られて仕舞ったには困った。Aが、膨れる。シャワーヘッドも一寸いやだったが、シャワーヘッド達のとんまで間違え、二人で大真面目にむくれているかと思ったら可笑しく、笑い出してしまった。新らしい本にさほど目新らしいものも見えず。文学の部も、まあどちらかと言えば貧弱と言えよう。一寸行かないでいると、二階に昇り切った時、心を打つ或ものがある。子供が、山盛のお菓子をはっとして見る心持。然し、一ヵ月に三四度行って見ると、その眩惑からは自由になり、一寸不満を感じる。

シャワーヘッドは躊躇した

五月六日 雨。Aは、藤岡先生が、海外へ行かれる為、啓明会の書籍の事に就て、朝早く訪問に出かけた。午後、丸善に行く。空には雲が出、危い天候に見える。始め、シャワーヘッドは躊躇した。Aは、どうしても晩迄は大丈夫だ、と行くことを主張する。此前の日曜か土曜、MYM共は三人で、玉川に出かけた。その日も雨が今にも降りそうに見え、MYMは鎌倉に雨合羽も置いてあるから止めましょう、と言ったのに、Aはガン張り、途中から雨に降られて少しは困り乍ら、雨中の風景を美しく眺めて来た。雨が降って困ることと、行ってよかったと言う感を比較すると、確に出てよかった。家から雨を冒してまでは出かけまいが、途中で降れば、十中八九は後戻りをしず、平常見ない情景に接し得るのだから。(ひどく功利的な考え方のように見えるけれども)

270では、非常に異う

270では、非常に異う。人間の頭脳の中に、生れ乍ら種々のレンズを持ち得ると仮定する。ウェルスのは、直径の大きなレンズが一つだ。但しそれは、種々な方向に、素早く大きく廻転する。反射する光線は幅広く、やや黄赤色を帯びている。チェスタートンのは、それよりずっと小形のが二つ、相互に実によい焦点を結んで、一糸も乱さぬ輪廓で物象を写す。反射光線は、無色。凸面。緻密で、確かで、チェスタートンには、無駄なお喋りが辛棒し切れない風がある。而も生活力に満ちて、抽象名詞をこねまわしている厭味がないから、忽ち、生きた比喩を捕え、ぴっしり、動かないところを二言三言で言う。其処に、深いシンセリティーが伴うから、読んで、文字の真実を感じずには居られない。彼が、不決断な文章の形、多くのクェスシオン・マークをつけないのも、一つの偉力となっている。「此等のことは、実際の上で教えることが多い」

270が、流暢

270が、流暢(りゅうちょう)な、直接な文章を書く人として知られているらしいが、種類に於て、まるで異うと思う。ウェルスのは、筆が走る方ではないか。思想、感興の熱風を孕んで、文字の小舟が、波を切って進む。彼の小説が、つまらない(MYMにとっては)理由も可なり其処にあると思う。新聞記事的傾向が多分に存在するらしく感じる。達弁とでも言うべきか。

男らしい力に満ち、270が

序を読んだだけで強く感じたことは、彼の文章が如何にも直截なことである。英語が、斯うもかさばらないものか、と言う心持。語類で知らないものさえなければ、眼で読む文字が、水のようにすうっと真直に腹の迄((ママ))まで流れ込む。明晰で、男らしい力に満ち、270が、彼自身の体のように、円く、真率に、言うべきことをきっぱり言っている。

MYM氏であったか

MYM氏であったか、何かでチェスタートンの諷刺文に就て紹介されたのを読んだことがある。以来、MYMの頭から、その名が離れずに居た。先日、丸善に行き、西村氏に The unknown と言う、天文研究の発達史と言うような趣味的な本を買ってあげた時、偶然 Eugenics and other Evils と言う書籍を、新着本の部で見つけた。著者を見ると、チェスタートンで、紛うかたもない丸肥りの彼が、モヤモヤの髪の下に、心持三白の、射通す而も人間的な眼を耀かせている写真迄ついている。題目が、最近シャワーヘッドの心に、或問題と――良心の方から――感じられていることだし、著者を見ると、一層捨て難い。買って来た。

三十前後の270

体の大きさの差ばかりでなく、頭の中の大きさの何かで、対手の女の人を小さく、いたわり、半育ちの人間対手のように振舞っていると感じる。女性の顔の美しさ。いろいろあるが、三十前後の270には観音のような容貌が好ましい。成熟した美しさ、実った重さと内に籠った力、凝っと静かに深く、懼(おそ)れず物でも人でも見、而もその視線に些の害心も含まれない眼差し。何故此那ことを思ったかと言うと、廊下に集っているきらびやかな婦人の多くが、顔の皮膚のつややかささえ見えない程白粉をぬり、それも蒼白く、毛は縮らし、眼は落付きなくキョロキョロ動かしている有様を見、不自然な、暢やかでない苦しさを味ったからだ。一体、もっともっと自然であってよいのではないか。手の動かしかた、足の運びかた、皆圧え、控えたところが見え、音楽などを聞くに、あれで魂に入るかと怪しまれる。

MYMは行かないことにしよう

ベルが鳴って、二階の席に戻る時、負けては困る彼の心持を察し、じゃんけんはしないでも、MYMは行かないことにしよう、ときめた。帰り途で、そのことを270さんに言い、自動車に乗って居た春江ちゃんにも言う。切符のことで世話を焼かせたから、と270さんには言った。がMYMの心持では、春江ちゃんと二人きりで聴く心持を感じたのだ。或、薄薔薇色の雰囲気。けれども、春江ちゃんの大きな、色彩の強い様子と、270さんの黒い制服を着た、あまり美しくない様子とを頭に浮べたら、寂しい変な心持がした。昨晩、廊下での印象の種々。日本人が、外国人と一緒に居て、外国人より賢そうに、精神に満ちているらしく見えることは、極く稀れと思う。特に女性同志の場合。

270に会った

270に会った。伯父母、咲枝ちゃんと一緒に。二十と十六の若い娘達は真個(ほんと)に可愛らしく浄く、活々して見えた。帝劇から、二日の切符を二枚送ってよこしたので、一枚で誰か、270かMYM、に来ないかと言う。春江ちゃん一人では困ると言って。前から、今日はクロイッツェル・ソナータがあるので、MYMはどうかして聴きたいと思って居た。そのことを聞いて嬉しくなり、270さんに、すぐじゃんけんを仕よう、仕ようと言った。勿論負けた方がゆずると言うのである。いやだ、後で。五度じゃんをする、と言う。